一年後、変わっているために

今、目の前の景色から変えていく生き方論

データが消えた

iPhoneの調子が…汗。

何を押しても反応しなくなってしまった。

リンゴのマークが光っているだけ。

電源も切れない。

データが全部消えるかもしれない。

初期化しなければならないかもしれない。

さぁなんだこの試練は?!

この状況で考えたこと。

1、今日は何もしないで諦めて寝れる!

2、明日午前中までと約束した仕事の依頼、最悪の場合でもどうにか相手の方へ連絡したい

3、写真は消えても意外と何とも思わない

4、データまで断捨離するのも面白いかも

5、LINEが消えても構わない。むしろこれも断捨離

6、連絡先が消えてもFacebookログインできれば困らない

7、アップルストアがどこにあるのかは知っておかないとまずい

8、重要な事はメモするなどアナログで残しておく事も必要

 

と、このような感じだが。

スマホ一台で何でもできるということは、スマホがなくなれば、何もできない!!

これを痛感した。

残り物で何を作ろうかな?と考えたがレシピを見れない。

買い物に出るにも時間を見たいがスマホが使えないから久々に腕時計をする。

そして、写真というものに対して全く執着がない自分を知った。

好きな場面は脳裏に焼き付いているようで、はっきりと思い出せるのである。

お気に入りの顔もはっきりと思い出せる。

つまり、脳にデータが残っている。

これでいいじゃん。

良い場面を思い出として写真に残そうとする行為は、その時の雰囲気の良い流れを遮るだけでなく、目で見たとても良い状態の生の記憶を残すことができなく、残念である。

(意図的に物を撮るなど、自然な流れを遮らない場合は別。)

これは長年関わってきた幼稚園の園長先生もよく言っていたことではある。

『レンズを通してではなくて、生の目でしっかり見ることが大事です。』と、何度も伝えられてきた。

私はそれを信じて素直に実践してきたから、大切なことがよくわかっている。

頭にも心にもちゃんと温かく残っている。

しかも、いつ死ぬかわからない。

いつ災害で物を失うかわからない。

誰にでもその可能性はある。

写真に残すよりも、目でしっかり見て感じて、頭と心に残ることが大切だと再確認できた。

そして、いつ災害で物を失うかわからないのなら、いつまでその物に執着しているのか。

自分にとって、本当に手放したくない大切な物は何か、本当に手放したくない大切な人は誰か、そこに依存や執着があるなら気がついて、今一度考えてみるべきである。

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